高坂弾正 Kôsaka-Danjô  1527-1578

Publié le par Yama no Kami Nobusada

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信玄に寵愛された高坂弾正。甲斐石和荘の豪農の嫡男として生を受けた
弾正は、当初、兵糧方を務めていたという。やがて、その才能を開花させた
彼は、川中島の要衝・海津城の部将に任じられている。
天正6(1578)年5月7日、武田の衰運を予期しながら海津城で病没。52歳

武田軍の兵糧係の頭領だった石和の豪農・春日大隈の子。春日源助と名乗っていた16歳の時姉婿と土地のことで訴訟を起こし、
その公事の場で、父・信虎を追放し、武田の当主になったばかりの
武田晴信に見初められる。公事には負けるが武田家への仕官が決まり、
20日のうちに主君の一番近くに仕える奥近習に抜擢される。大変な美童で、晴信の寵愛も相当深かったと思われる。
その証拠に源助に浮気を詫びた『誓詞』が今も東大の史料編纂所に現存している。しかし、
源助は主君の寵愛に甘えることなく修行を積み、使い番を経て、26歳の時信州小岩岳城攻略の殊勲者として侍大将に抜擢され、
春日弾正となり騎馬150騎を預かるようになる。信州・小諸城代雨飾城代を経て川中島を望む
海津城主に。この時、
武田に反旗を翻して誅された高坂某の妹を娶り
香(高)坂弾正と名を変える。虎綱を名乗ったのもこの頃か。『高坂』の名が、
この地を治めるのに都合がイイと考えた訳だが『春日』も同じ信州の名族の名であることが分かり間もなく本姓に復している。
それにしてもこの時が高坂の初婚だとすると33歳…随分遅い結婚である。
川中島の戦の際は、妻女山迂回部隊を指揮したと言われている。
戦の後、敵味方の区別なく戦死者を葬り、遺品を越後に届けさせたと言う。信玄亡き後殉死を願い出るが一条信龍らに止められ、
今度は自分が土屋昌次らの殉死を止める役に回らなければならなかった。
設楽が原には越後の押さえのため参戦しなかったが、
味方が不利と聞き急遽兵8000を率いて戦場に向かうが、時すでに遅く敗走してきた
勝頼一行を測らずも出迎える形になった。
高坂は、一行の武具一式を取り替え、敗戦の見苦しさを感じさせないよう配慮した。しかし、高坂の数々の進言も悉く勝頼に退けられ、
苦悩の内に
天正6年、5月7日病没する。享年52歳。墓は海津城のある、長野県松代町の明徳寺にあり。

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