The TAKEDA Shingen History (3)

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[編集] 甲相同盟

永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、遠江国・三河国に侵攻する。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還した。

元亀2年(1571年)10月3日、北条氏康が小田原で死去。後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を結ぶに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達した。

[編集] 西上作戦

西上作戦を参照

永禄8年(1565年)、信玄と信長は東美濃の国人領主・遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しており、徳川氏とは軍事的衝突を行いながらも織田氏と武田氏は引き続き同盟関係にあった。

元亀3年(1572年)10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて信長との同盟を事実上破棄して、上洛するために甲府を進発した(ただし、信玄は信長に友好的な書状を送り続けるなど、なおも同盟を続行させるかのような行動を見せている)。約3万の全軍のうち、3千を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5千を預けて家康の領土・三河に、そして自らは馬場信春と共に2万の大軍を率いて青崩峠より遠江に攻め入った(これには後北条家の援軍2000も加わり、総勢は2万2000ともされる)。

信玄率いる本隊は10月13日、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城を1日で落とした。山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。

これに対して、信長は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に3千人の援軍を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた(一言坂の戦い)。12月19日には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた。

劣勢に追い込まれた家康、当初は浜松に篭城の構えを見せたが、武田軍の動きを見て兵1万1,000を率いて出陣、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と一大決戦を挑む。しかし兵力の差、並びに信玄の戦術の前に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走した(三方ヶ原の戦い)。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したと伝えられている。

しかしここで盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。

信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。

[編集] 信玄の死と遺言

信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決意する。

4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。

辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。

『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信房、内藤昌豊らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

信玄の遺言については、遺体を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれおり(『軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、信憑性に関しては軍鑑作者と言われる高坂昌信(春日虎綱)の意思が介在していることが指摘されている(柴辻俊六による)一方で、同時代史料で確認できるものある。

信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行なわずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の円光院などには信玄の火葬地とする伝承があり、円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたと言われ、死の直後に火葬して遺骸を保管していたと考えられている。

葬儀は、『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる天正3年(1575年)4月12日に恵林寺で弔いが行なわれており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行なったという。上野晴朗はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年(1576年)4月16日に本葬を行なった」としているが、この記事を天正4年(1576年)の本葬の誤記であるとする説もある。

[編集] 政策

[編集] 家臣団

信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、当時は男色(衆道)が男のたしなみと認識されていたが、信玄が春日源介(後の春日虎綱)に対して、浮気の弁明を記す手紙や誓詞(天文15年(1546年)武田晴信誓詞、ともに東京大学資料編纂所所蔵)が現存しており、家臣との交友関係を示す史料となっている。

[編集] 領国統治

信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立し、在地掌握のための検地も行われ領国支配の基盤が整えられた。

武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく年貢収入に期待ができなかった為、信玄期には大名権力により治水事業を行い、氾濫原の新田開発を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行なわれた御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧中巨摩郡竜王町、現甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変え開墾した。

日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。甲斐には黒川金山や湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇り信玄期に稼動していた金山が存在し、南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。但し、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料はみられず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。

寺社政策では寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に臨済宗の恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られる。

しかし、これらの政策もさすがに戦費そのものを賄うほどのものではなかったようで、外征の際は人身売買を含めた大規模な略奪を伴い、参戦した国人はこういったことによって利益を得ていた(とはいえ、こういった略奪は農業を基本とした大抵の武将がやっていた)。

駿河を征服すると武田水軍の創設に尽力し、元亀2年(1571年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮造酒丞(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)、向井正勝(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、間宮忠兵衛(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。

[編集] 人物
甲府駅前の武田信玄像
甲府駅前の武田信玄像

仏教の信仰は篤かったと言われている。しかし、信玄自身は在家出家しながらも俗世との関わりを絶たずにいるなど 仏教に背く行為がみられた。

このことに関して信憑性は今ひとつである『甲陽軍鑑』(元々信玄本人が著したのではないのと、成立が江戸初期という事で、徳川幕府の手が加わっている個所が多々見られる)の記述では、当時信玄が熱心に勉強していた『碧巌録』の10巻ある内の7巻までを信玄が参禅し終わった時、導師岐秀元伯に「あなたはこれ以上する必要はありません。武士である以上、悟りをひらいて俗世を捨てるという考え方はいかがなものか」と言われ、信玄本人は10巻までの参禅を希望したが、説得され7巻までにとどまったとされている。

当時の武士、特に国持ち大名と呼ばれる武士達と僧侶は繋がりが深く、多くの武士が出家しているが、国の情勢や家督問題、俗物的な思惑など様々な理由により悟りをひらくまでにはいたっていない。当時の有力寺社には僧兵、神人と呼ばれる武装した下級の僧侶、神職を抱え、女人に手を出し強盗紛いの行為に及ぶなど堕落し、俗世に関わり武装闘争をも辞さなかった。信玄は出家しこれ等宗教勢力の一員もしくは協力者ともいえる関係になることで、これ等の宗教勢力や一揆を扇動し、他の大名への牽制や戦力の分散をさせるといった狙いもあったとされる。『甲陽軍鑑』の中で信玄出家の理由の一つに、出家することで大僧正の地位を手に入れるといった目的もあったとの記述も見られる。また、本願寺の顕如の夫人如春尼と信玄の正室三条の方は実の姉妹である。このような事や家臣にも同様に出家したものが複数いることから、信玄個人だけでなく武田家は宗教勢力との関わりが深かったと言える。このように、形骸化したとはいえ本来あってはならない僧侶の婚姻を推し進めたり、信者を使って一揆を誘発したりしていたことから少なくとも純粋な信徒ではなかったようである。

[編集] 肖像画

信玄の肖像画では、和歌山県の持明院所蔵の「絹本著色武田晴信画像」、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆「絹本著色武田信玄画像」(重要文化財)が知られる。前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部には髻があり、足利将軍家家紋「二引両紋」のある太刀が描かれている。三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた「日堯上人像」と同時期に描かれている。同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、法師武者姿で諏訪法性の兜をかぶったイメージが成立する。明治後半には後者の肖像画が「武田信玄像」として紹介されると大正から昭和初期にかけて定着し、甲府駅前や塩山駅前にある銅像のモデルにもなっており、歴史教科書においても採用されていたため信玄の一般的なイメージとなっている。近年は、

    * 39歳で出家し剃髪したにも関わらず、後鬢が残されている。
    * 服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利・畠山)である。
    * (持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。
    * 右側に止まっている鳥は、能登の鳥である。
    * 絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期能登から出た形跡が無いこと。

などの疑問点から畠山義続ではないかという学説が出ている(藤本正行『武田信玄像の謎』。)最近の教科書では「絹本著色武田信玄画像」は使われておらず「持明院蔵」の肖像画が使用されている。現在、NHKやフジテレビでは「絹本著色武田信玄画像」は使われていない。しかしながらどちらも推測の域を出ないものであり、今後の実証的研究が待たれる所である。

[編集] 名言

    * 「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)」

    この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の躑躅ヶ崎館に住んだ。但し、後背には詰めの城である積翠寺城があり典型的な戦国武将の居館ともいえる。また、この言葉は後世の創作であるとも言われるが、能く信玄の理念を顕しているとも言われる。

    * 「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」

    勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。信玄死後、連戦連勝を重ねた勝頼が長篠で一敗地にまみれたことを重ねると、実に説得力のある戒めであるが、そもそも甲陽軍鑑の脚色とする説もある。

    * 「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」(現在では米沢藩主・上杉鷹山の言葉としての「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の方が良く知られているが元々は信玄の言葉である)

[編集] 風林火山

風林火山は、孫子に記された「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)」(さらに「知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し」と続く)という語句を略したものである。信玄もこれをもとに軍旗に「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と書いて戦った。また、その軍旗は恵林寺の住職快川紹喜の書と伝わり、武田神社に現物が収蔵されている。

[編集] 逸話

    * 信玄は鉄砲の威力を過小評価していたと言われるが、それは事実ではない。天文24年(1555年)の段階で鉄砲を300挺以上も所有していたと言われる。妙法寺記の天文24年の項に「旭の要害(旭山城)へも武田晴信(武田信玄)公人数三千人(中略)鉄砲三百挺入候」とある。天文24年は鉄砲が伝わって12年後であり、当時、長尾景虎(上杉謙信)と敵対していた最前線の旭山城にだけ300挺も鉄砲を入れたとなると、武田軍全軍では500挺近くは有していたのではないかと推測される。これほど早い段階にこれだけの鉄砲を有していたことは驚異的であるが、甲斐は美濃や尾張に較べると中央にほど遠い後進地域であり、後に織田信長が堺や近江国友などを支配下において鉄砲を独占したことから、武田軍は騎馬隊や石礫隊の編成を重要視せざるをえなかったものと思われる。
    * 信玄の生涯戦績は72戦49勝3敗20分けである。引き分けが多い(約27.8%)のが特徴であるが、一度引き分けた場合でもその後には必ず相手を陥れており、勝率と分率を合わせると約95.8%に達する。敗率はわずか4.2%である。「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す」の言葉に表れているように、完全勝利を追求するよりも負けない戦いを心がけていたことがうかがえる。当時最新の兵器であった鉄砲を日本一多く所有していたと思われる織田信長の敗率が約18.6%にも達している(156戦113勝29敗14分)ことを考えれば、驚異的な数字である。武田軍の強さは、長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項を参照)。
    * 躑躅ヶ崎館に、水洗トイレを設置している。躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき上流の者が水を流す仕組みである。信玄はここを山と言う名称で呼んでいた。家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。トイレと言ってもかなり広く、室内には机や硯も設置されていた。信玄はここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。
    * 甲陽軍鑑によると、信長から小袖が贈られた時に、信玄はそれが入れられていた漆箱の方に目をつけそれを割るなどして調べると、それは漆を何度も重ね塗りしたものでありその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と言った事から、信長の真意はともかく細かい所にも気をつける性格だったようである。
    * 信玄は、かなり前から病を患っていたものと思われる。信玄ははじめ上洛を開始する日時を10月1日としていたが、それを10月3日まで先延ばししたのは、信玄の病が一時的に悪化したためと言われている。
    * 信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いて、情報収集や諜報活動を行なわせたと言われている(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせたという。信玄が戦争に常に勝利し続けたのは、常にこういった情報収集が素早かったためと言われている。このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称された。しかし、甲陽軍鑑の歴史資料としての信憑性は他の資料との比較から疑問視されており、この様な事を本当に行っていたかどうかは疑問である。
    * 上洛のとき、「甲陽軍鑑」において、次のようなことを信玄自らが述べたという記述がある。

    「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり」

    * 元亀2年(1570年)の織田信長による比叡山延暦寺焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。このため、元亀3年(1572年)に信玄は比叡山延暦寺の生き残った高僧から、大僧正の地位を与えられている。
    * 信玄にとって甲斐から京都へ上洛する距離は、当時としてはかなりの遠隔地だったため、上洛は難しいとされていたと言われる。実際、織田信長の美濃・尾張に較べると甲斐は後進地域であるうえ、山国でもあるために行軍も難しかった。信長が信玄に先んじて上洛した際、当時の俳諧書である犬筑波集では、次のように揶揄する句が記されている。

    「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田殿」

    * 信玄は生涯で同盟を破った事は多く、諏訪、織田、今川、徳川(結果的には北条)などがあげられる。そのため外交における信用がほとんどなく、勝頼の代となって上杉と同盟を結ぶ際にその事を指摘されている。
    * 信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。

[編集] 研究

[編集] 死因

死因に関しては、侍医御宿監物書状(戦国遺文2638号)にみられる持病の労咳(肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』による胃がん若しくは食道癌による病死説が有力である。

徳川勢の鉄砲弾による傷が原因との説があり、武田軍が三河国野田城を攻囲中、信玄が城中から聞こえる笛の音に惹かれてやってきたところを狙撃され負傷したのだというが俗説である。これは「松平記」など徳川方の史料だけにしか見解が無いため、恐らくは信玄を討ち取ったという手柄を徳川一族のものにしたいという創作ではないかとされている。また、近代には地方病として蔓延した日本住血吸虫病による体力の低下という説もある。また、織田信長にヒ素で毒殺されたとする説もある。

[編集] 父の追放について

近年、信玄は老臣の操り人形で、父追放は甲斐の有力国人衆のクーデターだという説がある。その理由に、信玄が16歳にて初陣に出たと言う輝かしい日に、駒井高白斎は日記に、今川家の家督争いを書いている。なお学会の見解としては20歳にて初陣に出たという意見で一致しているが、これは戦国大名としては遅すぎるので、このような説が出たと思われる。

また、板垣信方が主君の意向を無視した行動をたびたび起こしていることもこの説の信憑性を強めている。このことから信玄の支配確立は上田原の戦い以降だと述べる識者もいる。

[編集] 武田菱

武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。また山梨県警機動隊の車両などの装備品にも用いられている。

なお、皇居で行なわれる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(天皇や皇族らが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である(宮内庁広報係の回答より)。

[編集] 後世への影響
武田二十四将
武田二十四将

武田家は勝頼の代で滅亡しているが武田家の遺臣は徳川氏によって保護され、武田遺臣のなかには幕府に仕えて活躍したものもいる。また、甲斐では村落に居住しつつも武田旧臣に由緒を持ち特権を保持していた武田浪人が存在していた。

江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになり、信玄の名は広くしられることになった。原典は江戸時代に作られた浮世絵や浄瑠璃で、正式に武田家中で二十四将と言う区分や呼称は存在しない。選ばれた武将達も時代は離れており、全員が同時期に信玄に仕えていた事は無い。庶民の評価で決まったものらしく、資料によっては顔ぶれが異なる。なお、この種の群像では主君を入れないのが一般的だが、武田二十四将には家臣が23名しか入らず、信玄自身が二十四将の一人に数えられていることが最大の特徴である。

江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした『甲陽軍鑑』が成立し、これを基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、一円が幕領支配となった甲斐国においては大小切税法や甲州金、甲州桝の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。

明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになり、戦前には内務省が武田神社の別格官弊社への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後には、英雄史観や皇国史観を廃した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになり、昭和62年には武田氏研究会が発足し、磯貝正義、上野晴朗、笹本正治、柴辻俊六、平山優、秋山敬らの研究者が出現し、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行なっている。

戦後には産業構造の変化から観光が山梨県の主要産業になると、観光事業振興のもと信玄は県や甲府市によって歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物としてより位置付けられた。信玄の命日にあたる4月12日の土日には時代行列「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である信玄公祭りが開催されており、また山梨の日常食であったほうとうが「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わるさまざまな信玄由来説が形成された。

[編集] 系譜

清和源氏の中の河内源氏系の新羅三郎義光を祖とし、代々甲斐の守護を務め甲斐源氏と呼ばれる武田氏の第19代当主に当たる。武田家は源平時代には武田信義が(源頼朝や源義仲と共に)平清盛討伐の命令を受けるなど、古くから武力に秀でていた。

信玄の正室・側室は上杉朝興の娘、三条公頼の娘・三条の方(または三条夫人)のほか、諏訪頼重の娘など。多数の正室・側室がいたとする説もあるが、史料にて確認できるのは、上杉の方、三条の方、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人の五人である。ただ、禰津御寮人の子と言われる武田信清の出生時期が極めて遅いこと、信玄の七女が母親不詳なこと、上記三人以外の側室の墓が残されていることからほかに側室がいた可能性が高い。なお、新田次郎の小説『武田信玄』の作中人物あかねの方は上記の事情から着想された人物である。現在の武田家臣の子孫には『三枝家』が有名である。







    L'offensive des TAKEDA sur le Shinano eut lieu en 1520. Le père de Shingen. Nobutora, échelonna ses attaques durant les années trente, et Shingen continua la campagne jusqu'au début des années soixante. Le but de cette offensive vers le Nord était de soumettre les nombreux guerriers du Shinano au contrôle des TAKEDA. Leur indépendance aurait été un constant danger pour Shingen si il avait tenté une confrontation avec les Seigneurs de l'Ouest dans une attaque prématurée sur Kyoto. Le premier pas que Shingen se devait de faire pour atteindre ses rêves d'unification du Japon était de sécuriser les frontières Nord de sa petite province montagneuse. Après, le sud lui serait ouvert. Les incessants combats remportés par les TAKEDA leur apportèrent un flot de nouveaux guerriers pour alimenter leur machine de guerre... Le passage direct entre Kai et Kyoto était bloqué par les alpes Japonaises, du Sud à l'Ouest. Donc les lignes de communication furent transportées vers le Sud-Est, à travers la région des lacs du mont Fuji jusqu'à la baie de Suruga. De là, on peut voyager vers 1" Ouest par terre ou par mer jusqu'à Kyoto... La frontière entre Kai et Shinano étant une chaîne de pics montagneux connus actuellement sous le nom de "Suisse Japonaise", le rythme des batailles devint dépendant de la fonte des neiges. Les assemblées politiques et les rituels religieux étant accomplis durant les hivers rigoureux et la stratégie militaire testée du printemps à l'automne. En plein milieu de l'hiver, on planifiait l'organisation des provisions pour les offensives de printemps. L'intendance de Shingen est connue pour être à l'origine de beaucoup de manufactures de la période Edo.

    Avec une armée de plus de cinquante mille hommes dont environ le quart était de la cavalerie, le gouvernement des TAKEDA faisait face à de constant problèmes logistiques et financiers. Ceux-ci furent résolus de la façon la plus simple: l'augmentation des taxes... Shingen conservait la loyauté de ses guerriers (Bushi) en leur assignant des terres à production réglementée. En échange des revenus de ces terres, le guerrier offrait un service militaire approprié. Shingen imagina des taxes ad hoc de tous types et leva des taxes de résidence directement auprès des paysans pour augmenter ses revenus et pour éviter le vieux système de rente sur le riz aux mains des petits seigneurs locaux. Il plaça des taxes aux passage des frontières pour les nombreux pèlerins venant aux sanctuaires du mont Fuji. De ce fait, il fut loué pour son habileté en administration publique par les autres grands seigneurs de l'époque, et tout nous indique que la machine de guerre des TAKEDA reposait autant sur sa politique civile que sur ses exploits sur les champs de bataille. En dépit de ses succès chez lui, la technologie de l'époque n'était pas encore assez avancée pour pourvoir aux besoins de tous.
    Les paysans continuaient à souffrir de la faim les mauvaises années mais, quoique ceux-ci portaient le poids du financement du rêve de conquête de Shingen, le niveau des cultures fut certainement amélioré par le programme de travaux publics institué par lui. Le plus fameux de ces travaux fut l'érection d'un système de digues le long des rivières principales du centre de Kai. Il utilisa des ouvriers locaux, abandonnant des taxes aux villages en échange des travaux de la même façon qu'il abandonnait des taxes aux guerriers pour leur service militaire. Les anciennes forteresses des territoires conquis furent aussi reconstruites dans la même intention de rejoindre les besoins locaux autant que possible.
    Avec l'augmentation de l'activité fiscale, Shingen dût engager de plus en plus d'hommes dans son administration. Son organisation gouvernementale ,1e "Kashindan", était formé du même moule hiérarchique féodal qui caractérisait ceux des autres seigneurs. Mais pendant que ceux-ci souffraient plus du danger que représentaient leur propres vassaux que d'une menace extérieure, Shingen était à la tête d'une troupe loyale. Beaucoup de ces Guerriers-fermiers étaient des branches de la maison TAKEDA. Cela incluait de fameux généraux comme ITAGAKI, AKIYAMA, AMARI, ANAYAMA, etc... qui prirent souvent leurs noms des localités qu'ils administraient. La plupart de ces maisons restèrent loyale à la famille TAKEDA pendant les quatre cents ans suivant la séparation en différentes branches, au 12e siècle. Pourtant les étrangers étaient aussi les bienvenus dans le Kashindan...
    Fins stratèges, valeureux guerriers, Prêtres, érudits, poètes, artistes en tous genres et conteurs, tous venaient à Fuchû (actuelle Kôfû) comme conseiller du Seigneur. Une remarque de l'époque explique avec concision ses succès. Expliquant à ses vassaux qu'il n'avait pas besoin de nouveaux châteaux à Kai, il fit, -Les hommes et les femmes de Kai sont mes forts, mes murailles, mes douves. Nous montrons de la compassion pour nos amis et vengeance pour nos ennemis."



    Takeda's offensive on Shinano dates from the 1520s. Shingen's father, Nobutora, escalated his attack during the thirties, and Shingen continued! the campaign into the early 1560s. The purpose of the northern campaign was to bring the numerous samurai leaders of Shinano under Takeda control. Their independence would have been a constant threat to Shingen if he had attempted to confront the western warlords in an early move toward Kyoto. The first step of attaining Shingen's dream to conquer all u of Japan was securing the northern front of his small mountainous | province. Then he could move to the south. Since direct passage between Kai and Kyoto was blocked by the southern Alps at Kai's western border, the established line of transportation was to move southeast through the Mount Fuji lakes area to Suruga Bay. From Suruga one could travel west by land or sea to Kyoto. Constant battles brought one samurai band after another into the Takeda war machine. Since the border between Kai and Shinano is a range of towering peaks, known as the "Switzerland of Japan" the rhythm of battle became attuned to the melting snows.
    Political gatherings and religious rituals were performed throughout the snowbound winters, and military strategy was tested in the spring. At the core of wintertime planning was organizing supplies for the g spring offensive. Shingen's commissary was famous as the birthplace of many a Tokugawa period merchant house. With a fifty-thousand-man standing army, about one quarter of which was cavalry, the government was faced with constant financial and logistic problems/The financial problems were met in the manner governments tend most to depend upon, by increased taxation. Shingen maintained his retainers' loyalty by winning them to administer lands with set production. In return for the income from those lands, the retainers supplied appropriate military service. Shingen devised ad hoc taxes of all types, and levied residence taxes directly upon peasants to increase his income and to avoid dealing with the old rice rent system in the hands of local landlords. He placed toll levies upon devotees coming to the shrines at Mount Fuji, and made large demands for provisions from wealthy landlords. For his skill in public administration he was praised by other warlords, and all indications confirm that the strength of the Takeda war machine rested as much upon his civil policy as his military strategy, In spite of his success at home, the technology of the age was not advanced enough to provide for everyone.
    The peasants still suffered from famine in bad years. Shingen's residence taxes were two to four times greater than those of neighboring lands. As peasants fled to others provinces to avoid tax payment, Shingen placed strict measures on villages to account for taxes according to a system of group liability. In retaliation, at least once, the inhabitants of an entire village went off to the mountains, refusing to turn over any part of their harvest. This occurred in 1551, when peasants of Tsuru district tied from a new levy imposed for the Shinano campaign. They burned their homes and fields, abandoning all, more in helplessness than in protest. Although peasants bore the brunt of financing Shingen's dream i conquest, the general level of cultivation was much improved by the public works programs instituted by Shingen. The most famous of these works is the dike system built along the major rivers of central Kai. He used local labor, and waived taxes for villages in return for construction service, just J as he waived taxes for samurai in return for military service. Old forts in newly-conquered territories were also reconstructed with the intention of, meeting the local needs as much as possible. With the increased fiscal activity of territorial government, Shingen had to bring more men into his administration. His government organization, the kashindan, was formed in the same hierarchical feudal pattern that characterized those of other warlords. But while other warlords often suffered more danger from their own retainers than from outside armies. Takeda was firmly in charge of a loyal band of warriors. Many of the samurai landlords of Kai were branch families of the Takeda house. These include the famous generals of the warring states period, Ogasawara, Isawa, Itagaki, Akiyama, Kiso, Amari and Nanbu, who took their names from the localities where they settled. Most of these houses remained loyal to the Takeda for four hundred years after the split into branch houses in the twelfth century.
    Outsiders were also welcomed into the government. Priests, scholars, poets, strategists, and storytellers all came to Kôfu to act as the warlord's council. Although the story may be apocryphal, one remark by Shingen about his government expresses concisely the reason for his success. When explaining to his retainers that he did not need to build new forts in Kai he said : "The people are my castles, my stone barriers, and my moats. We show compassion for our allies, and vengeance for our enemies."





WARLORDS AND WAR

Rapid technical developments in crafts and arts were enthusiastically sponsored by warlords during the sixteenth century in order to line the | coffers of their treasuries. Even today, the area which Takeda governed is well known for tine craftsmanship in leather and metal, materials utilized in medieval armoury The most important technical development of the age m the mastery of firearms manufacture. This discovery, since it portended the equalization of access to military technology, was suppressed by the Tokugawa, just as they suppressed opportunities for social mobility common during the sixteenth century. They froze the class structure and granted the samurai class privileges tied to its exclusive control of martial arts. The contenders in the Age of the Country at War (sengoku jidai) had placed no restrictions on techniques of warfare. Even before the introduction of guns Of) the battlefield, rules were made only to be broken. One island battlefield named Kawanakajima is famous for a series of confrontations manipulated by Takeda Shingen to trap his most bitter rival, Uesugi Kenshin of Echigo Province. Kenshin had decided almost simultaneously upon a strategy of national conquest. The moment was ripe for a confrontation of the eastern warlords. The victor would surely move on to the west to assume hegemony.

Publié dans Histoire

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